「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」
魔導カメラに向かい、抑揚を意識しながら番組のオープニング口上を始める。隣には、黒革のエプロンを身にまとったエルドリスが、いつものように無表情で立っている。
「本日の食材は、こちら」
僕が背後を指し示すと、鎖と首輪に繋がれて吠える魔物が映し出された。
「ヴァーモート・ハウンド。C級魔物です」
黒く滑らかな毛並みを持つ大型の犬型魔物で、四肢は異様に発達しており、特に後ろ脚の筋力が強い。その跳躍力は人間の身長を軽々と超え、獲物を捕らえる際には飛びかかって喉元に噛みつく。
特徴的なのは、その涙。
ヴァーモート・ハウンドは極度のストレスを受けると、フィンブリオの涙と呼ばれる特殊な分泌液を目から流す。それは極めて甘く、果実酒のような香りを持ち、料理の旨味やコクを引き立てる高級調味料として重宝される。
エルドリスが、僕と話す時間を作る対価として僕に求めた調味料だ。
「さて、今日はこのヴァーモート・ハウンドを使ってバーベキューを作ります。では、エルドリス先生、よろしくお願いします」
僕が言うと、エルドリスは厨房の端にあった長い木製のピザピールを手に取った。
「まずは、適度にストレスを与えて、フィンブリオの涙を抽出する」
ヴァーモート・ハウンドにツカツカと歩み寄り、その横腹にフルスイングの一打を見舞う。
ゴチャッ。
嫌な音がした。
「グゥウウウゥ……!」
ヴァーモート・ハウンドが低く唸り声を上げ、身を捩る。エルドリスはさらにピザピールを振るい、一撃死させそうな頭部を避けて、程度に衝撃を加え続けた。
「ナイフなどで切り傷を与えると、余計な血が流れ、肉も劣化してしまう。ゆえにフィンブリオの涙の抽出には打撃が有効だ。叩くことで筋繊維が解《ほぐ》れ、肉も柔らかくなる」
僕は吐き気を堪えて台本通りの台詞を口にする。
「先生。今回は最終的に肉も食材にするので、体へのダメージを厭《いと》わず、痛覚をわかりやすく刺激して手っ取り早く涙を抽出する、ということだと思うのですが、もしも一回限りでなく継続的に涙を抽出したい場合はどうすればいいのでしょう」
「その場合はもちろん、命に係わるダメージを与えないよう注意が必要だ。方法としては、手足を縛って逆さ吊りにする、狭い箱に入れておく、大音量の音楽を聞かせ続ける、などが考えられる。要はストレスを与えればいいんだ」
そしてまた、横たわったヴァーモート・ハウンドの腹にピザピールを振り下ろす。
僕は、舌のつけ根あたりまで瞬間的に噴き上がってきた胃液を、気力で飲み下した。
しばらくすると、魔物の瞳から透明な雫がぽたり、ぽたりと零れ落ちる。空気に触れると、わずかに青紫に色づくそれこそが、フィンブリオの涙だ。
エルドリスは素早く小瓶を取り出し、落ちてくる涙を丁寧に集める。
「十分に採取できたな。では、開こう」
ぐったりとしたヴァーモート・ハウンドの喉元にナイフを当て、下腹部まで一気に切り裂く。
血が噴き出し、鉄の匂いが調理場に充満する。魔物がくぐもった声を上げる。
「動くなよ」
エルドリスは片手で魔物の頭部を固定し、胸部にナイフを差し入れて開いていった。
ザクザクッ、ズルリ。
内臓がはみ出る。
僕は思わず顔を背けたくなったが、耐えた。いつまでも情けないままではいられない。僕と彼女は同じ目的のために最高のエンターテインメントを作り上げる同志なのだから。
僕が、何度も逆流してくる胃液を何度も飲み下す間に、エルドリスはヴァーモート・ハウンドの内臓の処理と肉の切り出しを終えた。
「さて、今回のメイン、フィンブリオの涙だ。焼く前に、これを肉に塗り込む」
エルドリスは先ほど採取した青紫色の雫を手のひらに数滴取り、串に刺しやすいサイズにカットされた肉の表面に満遍なく塗った。
「それでは、炭火でじっくり焼こう」
金串に刺した肉を、バーベキューグリルに並べる。少し経つと、脂がしたたり落ちて、火の粉が弾ける。金串を回し、表面が焦げすぎないように調整していく。
途中でフィンブリオの涙を塗り重ねながら、ゆっくりと焼き上げる。
香ばしい匂いに、僕の胃は僕の意思に反してグウゥと音《ね》を上げた。
「完成だ」
ヴァーモート・ハウンドの肉は、その身にまとった肉汁とフィンブリオの涙とで、黄金色に輝いて見える。
「わあ、美味しそうですね、先生」
ここで、僕の新しい役割が始まる。
「では、いただきます」
串をひとつ取り、焼き立ての肉にかぶりついた。
頭の中は真っ白だった。ただ使命だけを思っていた。
『明日からエンディングの前に実食の時間を取ろう。食べるのはお前だ、助手君。ダスト・スコッチを食べたときのお前の食レポは、なかなかそそるものがあった』
これも目的のためだ。僕が食べ、素晴らしい感想を言えば、画面の前の視聴者の胃はきっと刺激されることだろう。そうなれば、エルドリスが彼らのもとへ召喚される可能性も高まる。
「驚くほどジューシーですね。噛めば噛むほど脂の旨味が染み出してくる。でも決して肉は硬くなく、バーベキューを食べてるって感じのちょうど良い噛み応えです。臭みもまったくありません。むしろフルーティな風味を感じます。……美味しい」
最後は、思わず素直な言葉がこぼれた。
カメラが僕の表情を映しているのが分かる。
視聴者に、料理の美味しさをしっかりと伝える。それが今日からの僕の役目だ。
エルドリスが微笑みを浮かべ、満足そうに腕を組む。
僕と彼女は目を合わせ、実感した手応えを秘かに共有し合う。
「今日はヴァーモート・ハウンドのバーベキューでした。では材料と調理道具のおさらいと、本日のポイントです」
【材料】
養豚場の豚を噛み殺して全滅させたヴァーモート・ハウンドのフィレ肉 300グラム
フィンブリオの涙 10滴程度
【調理道具】
ピザピール(打撃用)
小瓶(フィンブリオの涙の採取用)
ナイフ(解体・調理用)
金串(肉を刺す用)
バーベキューグリル(肉を焼く用)
【ポイント】
フィンブリオの涙の採取には打撃が有効!
「それでは皆さま、また次回お会いしましょう。良い食卓を――」
◆
「エルドリス。僕の食レポ、どうでしたか?」
いつもどおり去ろうとする背に、問いかける。彼女は振り向き、無表情で答えた。
「まあまあだな」
「ええ―っ」
「お前の食レポには色気が足りない」
「色気? というと、どういう……」
「自分で考えろ、ひよっこ」
食事に色気など関係あるのか。
頭を捻りつつ僕は、彼女の後姿を見送った。
「んふふっふ~、んふふ♪ んふふっふ~、んふふ♪」『30分クッキング』放送前の地下調理場にはたいてい、エルドリスの鼻歌が響いている。彼女は僕と共に調理器具や魔物以外の食材の準備をしながら、僕など目に入っていないかのように一人の世界の中で歌い続ける。 そんな彼女の世界を脅かす来客があった。 廊下から調理場へと続く鉄製の扉がギィィと開く。「やあ、エリィ。調子はどうかな」 現れたのは、黒衣を羽織った長身の男だった。透けるような金髪に赤褐色の目、勝気な眉。がっしりとした首から続く肩幅は広く、服の上からでも窺《うかが》える鍛え上げられた体躯が、少なくとも彼が事務職の文官ではないことを物語っている。 エルドリスの鼻歌が止み、彼女は振り返る。「ネイヴァン・ルーガス。何しに来た」「フフ……演者と少し交流しようと思ってね」 低くゆったりと響く声。 彼女の呼んだ名を聞いてピンときた。ネイヴァン・ルーガスは、この『30分クッキング』の脚本家兼演出家だ。刑務所の役人ではなく民間人で、普段は調理場に顔を出さないため、その姿は初めて見た。「もうじき生放送が始まる。目障りだから出ていけ」「ご挨拶だなあ……ああ、そうそう。目障りといえば俺も、昨日の放送でとんでもない蛇足を見つけちまってねえ」 ネイヴァンの目がギロリと一瞬僕を見て、またエルドリスに戻る。「あんな馬のゲロの腐ったヤツみたいな実食シーン、俺が書いたとは思われたくないな。ボケた婆さんだってもう少しマシな台詞を吐くぜ」「演出家だろう? 役者の伸びしろに期待しろよ」「ふぅん、伸びしろねぇ……」 頭の先からつま先まで値踏みするような露骨な視線
エルドリスは昨日あのあと、ネイヴァンとどんな話をしたのだろう。 いつものように『30分クッキング』の準備を進めながら、僕はその疑問を頭の片隅で転がしていた。今日、顔を合わせたときに、それとなく聞いてみたのだが、彼女は『大した話じゃない』と言うだけだった。 特上の食材。それは一体何なのか。『30分クッキング』の趣旨からして、魔物であることは間違いなさそうだ。とすると、相当レアな魔物なのだろうか。 もうひとつ気になるのは、ネイヴァンが言った『お前の望みのモノかもな』という言葉の意味。エルドリスはネイヴァンに、どのような望みを伝えたのか。『かもな』という表現。以前にエルドリスが僕にフィンブリオの涙を求めたように、何か欲しいものを伝えたのだとしたら、それが用意できたか否かはAll or Nothing《オールオアナッシング》。『かもな』という不確実性を匂わす言い方はしないはず。 考えれば考えるほど、落ち着かない。 そうこうしているうちにいつの間にか、生放送の時間は迫っていた。◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 オープニングの挨拶をしながら、カメラのレンズを意識する。視聴者――嗜虐心を持て余した金持ちたちの目がこちらを見ている。 エルドリスは相変わらずの無表情。準備段階の方が、鼻歌まで歌って機嫌が良さそうなのが不思議だ。もしかすると、カメラの前では多少キャラを作っているのかもしれない。「本日より、特別企画――一体の魔物の全身を使った“フルコース”をお届けします」 台本通りの台詞。だがそれも、ここまでだった。昨日、夜になって上官から渡された僕の台本には、ここから先の展開はアドリブでと書かれていた。
ヴァルドルは、昨日と変わらず檻の中にいた。 四肢を拘束され、膝を抱えるように座らされている。表情はない。昨日、血液を搾られた際には呻き声を上げたが、今はただじっと虚空を見つめていた。 僕は準備をしながら、魔物の様子を盗み見ていた。昨日、エルドリスが回復魔法をかけたおかげで、傷は完全に塞がっている。それでも、昨日からずっとこのままの姿勢で拘束されているのかと思うと、胃の奥がずしりと重くなる。 少なくとも、水と何かしらの食事は与えられた形跡がある。檻の隅には、空の水皿と、食べ残しらしき肉の端切れが転がっていた。だがそれが、人道的な配慮からなのか、それともただの“食材の管理”なのかは、僕には判断がつかなかった。「助手君」 不意にエルドリスの声が背後から響き、僕は我に返った。彼女はいつものように淡々とした表情で、調理台に用意された器具を点検していた。「生放送の時間だ。準備はできているか」「……はい」 今日もまた、凄惨な30分間が始まる。 ◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 いつも通り、カメラに向かって挨拶をする。「本日は、フルコースの第二弾。アミューズ・ブーシュとオードブルを作ります」 エルドリスが檻の前に立つ。ヴァルドルは相変わらず無表情だ。しかし、彼の鱗状の皮膚の一部が、微かに震えているのが見えた。「まずは、皮を剥ぐ」 言いながら、エルドリスは鋭利な皮剥ぎ包丁を手に取る。その刃先は薄く研ぎ澄まされており、光を反射して輝いていた。「ヴァルドルの皮は、鱗の間に脂肪層を含んでおり、強い旨
ヴァルドルは昨日までと同じく、狭い檻の中で膝を抱えて座っている。 別に気にかける必要もないのだが、どうにも気になってしまって、僕は準備をしながら、さりげなく檻の近くを通り、魔物の様子を伺った。すると、かすかな声が聞こえた。「……ま、こ……ぐ……で……」 魔物の言葉はわからない。助けを求めているのか、神に祈りでも捧げているのか。 いや、意味のある言葉なはずがない。この魔物にそんな知能はないだろう。 ……本当に?「助手君、そろそろ時間だ」 考えを巡らせているうちに、エルドリスの声が響いた。 僕はヴァルドルを一瞥し、調理台へと戻る。 生放送の時間が迫っている。今日もまた、お届けしなければ。 "極上のエンターテインメント"を。 ◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 カメラに向かって、いつもの挨拶をする。「本日は、フルコースの第三弾。ヴァルドルの肝臓を使ったポタージュを作ります」「ヴァルドルの肝臓は、鉄分と脂肪が豊富で、クリーミーな味わいが特徴だ。燻製にすることで、濃厚な旨味が際立つ」 エルドリスは説明しながら、檻の扉を開いた。僕は彼女に言われる前にヴァルドルの鎖を引き、昨日と同じように蹲《うずくま》った態勢にさせる。 彼女の靴底が魔物の横っ腹を蹴りやり、まるで猫でも転がすかのように、全長四メートルの魔物の体を仰向けにした。「では、開いていく」
刑務官事務所の片隅で、僕は魔導通信機の受話器を握っていた。「ネイヴァンさん、エルドリスから伝言を預かっています」 受話器の向こうから、退屈そうな声が返ってくる。「おいおい、エリィの声が聞きたかったのに、きみかあ。……で?」「『パーティ次第だ』と」 一瞬、沈黙があった。 次に聞こえたのは、ククッという笑い声。「へえ、そいつは面白い」「そうなんですか? 僕には何が何だか」「エリィに伝えてくれ。『衣装を用意する』ってな」 また伝言ですか、という文句は飲み込み、「わかりました」と返す。 僕にはもうひとつ、この男に確認したいことがあった。その答えを得るためにも、相手の機嫌を損ねるのは得策ではない。「ネイヴァンさん、教えてください。あなたが用意したA級魔物ヴァルドル。あれは、魔物なんですよね?」「ふうーん?」 何故そんなことを聞く、とでも言いたげな声が上がる。それもそのはず。『30分クッキング』は魔物を調理する番組であり、食材として用意される肉はすべて魔物だ。 だがそのうえで、ネイヴァンは僕の真意を察したらしい。彼はきちんと、僕と同じ世界観の答えを返してきた。「まあ、エリィの答えを聞く限り、あの魔物は確かに魔物だったんだろうよ」◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 今日も生放送が始まる。「本日はヴィアンド(肉料理)として、ヴァルドルの腕肉――」「舌と腕肉の二種のステーキを作る」
出勤するやいなや、魔導通信機の受話器を持った上官に手招きされた。「お前にだ。ネイヴァン・ルーガス氏から」 昨日のメニュー変更の件かもしれない。 受話器を受け取って「もしもし」と応答すると、早速不機嫌そうな声が耳に飛び込んできた。「きみさあ、困るんだよねえ。エリィをちゃんとコントロールしてくれないとぉ」「すみません。昨日のメニューのことですよね?」「それ以外に、なぁにがあるんだよ」「すみません」「まあきみ程度のひよっこにエリィは乗りこなせんだろうなぁ。初めっから期待しちゃいないが」「あの」「なぁんだよ。弁明でもするかぁ?」 ついでだから言ってしまおう。「エルドリスからまた伝言があります。『三日は待たない』と」「わぁかった、わかった、『明日だ』って言っておけ」「明日って、何がです?」「ああ? 俺は忙しいんだ。エリィに聞けよ」 通信が切れた。正確には、一方的に切られた。 ため息を吐く僕を、上官が見ないふりしていることにも僕は気づいていた。 ◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 笑顔の能面にも慣れてきた。「本日は、フルコースの締めくくりとして、デセールとカフェ・エ・プティフールを作ります」 僕がそう告げる後ろの調理台で、魔物の深い呼吸音が響いていた。 そうだ。今日はいつもと違う。ヴァルドルは生放送の前から調理台の上に上半身をうつ伏せる形で、首と右腕を固定されている。 その光景をバックに僕とエルドリスは並んでオープニングを撮っていた。
「おいおいエリィ、もう少しそっちへ寄らせてくれよ」「うるさい。肘から先を失いたくなければ気をつけの姿勢で黙っていろ」「酷いぜまったく。なあ、新人監督官殿?」「ううっ、苦しい……」 ぎゅうぎゅう詰めの檻の中で、エルドリスはできる限りネイヴァンから距離を取ろうとしていた。しかし、狭い空間では限界がある。逆にネイヴァンはこれ幸いとばかりにエルドリスに密着しようとし、そのたびに肘打ちや足蹴りを食らっていた。その流れ弾が僕にも当たる。 通常、この転送用の檻は、死刑囚一人を島へ送るためのものだ。ゆえに狭い。極端に狭い。なのに今、この中には僕、エルドリス、ネイヴァンの三人が詰め込まれている。身動きはほとんど取れない。僕はエルドリスの肩に頭を押し付けられ、ネイヴァンの膝に挟まれたまま、完全に潰されそうになっていた。三人の中で一番背が低い僕にとって、この圧迫は地獄そのものだ。「うっ……死んじゃう……」「ネイヴァン・ルーガス。私に膝を当てるな、気色悪い。脚まで切り落とされたいか」「エェェリィィ……俺は今、最高に傷ついてるぜぇ?」 こんな状態で、本当に転移できるのだろうか。「準備はいいか」 檻の前に立った上官の声が響く。いいわけがない。「転送開始!」 合図とともに、檻の周囲に魔法陣が展開し、光が視界を満たした。 次の瞬間、僕たちは檻ごと別の場所へと投げ出された。 転移の衝撃で、体がぐちゃっと潰されそうになる。視界がぐるぐる回り、気づけば僕は檻から転がり出て、黒い砂の広がる砂浜に転がっていた。「うっ……」
「血統?」 とエルドリスが問うた。ネイヴァンが片頬を引き上げて笑う。「まあ、エリィは知らないか。知ってるのは帝国の中でも一部の貴族や軍のお偉方くらい。あとは、長生きな爺さん婆さんとかな」「もったいぶらずに端的に言え」「はいはい、わかったよ。ネイファ家っていったら、良い意味でも悪い意味でも一目置かれている一族だ。先祖が魔物と交わったっていう」 ネイヴァンは片手の指で輪を作り、そこにもう片方の手の指を差し入れる。「……くだらん」 エルドリスは呆れ顔でひと言発すると、ネイヴァンから顔を背け、黒い砂浜のあちこちにバラバラと転送されてきた調理器具や荷物の整理を始めた。「ネイヴァンさん。やめてください、その話」 僕は意を決して言う。「なんでだよ。俺はいい意味で一目置いてる側だぜ? なにせネイファ家には数十年に一度、隔世遺伝か何かで変わった能力を持つ子どもが生まれるんだろ?」「……僕は違います」「いいや、きみがそうだと聞いてるぜ?」「誰から」「そりゃあ企業秘密だ。バラしたら俺の信用に関わる。で、実際のところ、きみの"もうひとつの胃"ってのはどんなもんなんだ?」 そんなところまで知っているのか。 僕は首を左右に振った。「知りません。デマでしょう、そんな話」 それ以上この話を続けたくなくて、ネイヴァンから離れる。そしてエルドリス同様、黒い砂浜の上に散らばった調理器具やらなんやらを拾っていく。 だがネイヴァンはしつこく僕についてくる。「いいじゃあないか、教えろよ。きみの能力がわかれば、『30分クッキング』の演
僕たちは光の雨粒に打たれた白骨遺体を見つめていた。人間の形を保ってはいるものの、ところどころ損傷が目立つ。とりわけ頭蓋骨は縦に真っ二つに割れていて、致命傷の跡なのか白骨化後の傷なのかは知れないが、異様だった。 骨の表面には、雨水や泥の跡がうっすらと残っている。 そして絡みつく、僕が放った絶対拘束《トータル・フェター》の蛇。その意味するところはつまり、「これは囚人の――死刑囚の遺骨です」「誰なんだよ」 とネイヴァン。「わかりません。でもラシュトの部屋の奥にあったんですから、ラシュトの知り合いなのでは?」「うーむ……でもあいつ、他の死刑囚とつるむようなタイプか? 殺しちまいそうだろ」「知らないですよ」「あ、そうだ。これは聞いた話だが、人間の遺体が雨風に晒された状態で完全に白骨化するには、少なくとも一年かかるらしいぜ。となれば、この遺体は一年以上前にこの島へ送られた囚人のものだ」「そんなの、数えきれないほどいます」「だよなぁ。……新人君、識嚥《シエ》で食ってみろよ。それでわかるだろ」「嫌ですよ! 冗談じゃない!」 この男はなんてことを言うんだ。 エルドリスが小さくため息をついた。「断られるに決まってるだろ。頭を使え、ネイヴァン・ルーガス」「なんだよエリィ。じゃあ他に方法があるっていうのか?」「だから頭を使えと言っている。これまでの情報を総合的に考えてみるんだ。まず、この場所はラシュトのねぐらの奥にあって、ここに繋がる通路は岩壁によって遮断されていた。だが完全な遮断ではなかった。岩壁には隙間があったし、ここの天井にも隙間がある」「それが何なんだよ」 次に、とエルドリスはネイヴァンの問いかけを無視して続けた。
頭が重い。手足が思うように動かない。体が痛い。 目を開けると、冷たい岩肌の床が視界に入り、その先に、赤々と燃える焚き火が見えた。「おはよう、怖いお兄さん」 楽しげな声が降ってくる。 顔を動かして声のした方を見ると、ラシュトが焚き火のそばに座り、金属製のナイフを弄んでいた。彼は木製のナイフしか持っていなかったはずなので、それは恐らくエルドリスの持ち物だろう。その唇の端は愉快そうに吊り上がっている。「あなたたちさ、昨夜食べたセフィアベリーと今朝食べたヴェルド、食べ合わせって考えたことある?」 唐突な問いかけを聞きながら、頭の中で警鐘が鳴り続けている。手足が動かないのは縛られているせいだ。しかも手は背中側で括られているため、身を起こす支えにもできない。 エルドリスとネイヴァンも目を覚ましていたようで、すぐそばで動く気配がする。「セフィアベリーはね、胃でなかなか消化されないんだ。だからひと晩経ったくらいじゃまだ、胃の中に残ってる。それで、ヴェルドと混ざると……さ、あっという間に有害成分に変わる。そうなると、人間は――」 ラシュトはそこで言葉を止め、ゆっくりと笑みを深めた。「――昏倒してぐっすり眠っちゃうんだよ」 ネイヴァンが舌打ちする。本当は悪態のひとつも吐きたいところだろうが、彼とて今、この不利な状況で少年を煽るリスクを考えないわけがない。 エルドリスも同様だった。いつもネイヴァン相手に流暢に飛び出す嫌味が今は鳴りを潜めている。だが、彼女の無念は僕ら以上だろう。調理人である彼女にとって、毒の生成に食べ合わせを使われること、そしてそれにまんまと引っかかってしまったことは、屈辱にも近いはず。「あなたたちは運が悪かった。でも逆に僕はものすごく幸運だ。い
なんだ? どういうことだ? ラシュトはどこへ消えた? 僕はエルドリスとネイヴァンを起こし、事の顛末を二人へ伝えた。 ネイヴァンが点火魔法で焚き火に火をつけ、洞窟の中に鮮やかな視界が戻ってくる。僕たちは壁面を丹念に調べ始めた。叩いたり、押してみたり、突起に指をかけて引いてみたり。しかし――「特に変わったところはないな……」 ネイヴァンが首を水平に振る。壁面を構成する岩は、どれもただの岩でしかない。床も、下に抜け穴がないかと三人で調べてみたが、何も見つからなかった。 僕たちが調査を続けていると、外から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。「朝か」 エルドリスは立ち上がると、部屋の入り口へ向かっていく。「どこへ行くんです? もう砂浜へ戻りましょう。ネイヴァンさん、転移魔法をお願いします」「少し待て、念のため洞窟の外を確認する」「確認って何を! エルドリス、待ってくださいっ」 僕は洞窟へ入っていくエルドリスを追った。エルドリスは歩きながら僕の質問に答える。「確認するのはあの部屋の外側だ。私たちはここに入ってくるとき、蔓に覆われた入り口しか見なかった」「それが何なんです?」「あの部屋――あの広い空間には外気が流れていたな。つまり、僅かだが外部と繋がっているということ。その繋がっている場所を外側から見れば、わかるかもしれない。内側を調べてもさっぱりだったが、子どもひとり通り抜けるだけの隙間の手がかりが。あくまで小さな可能性だが」「わかりました。じゃあ、洞窟の周囲をざっと見て、そしたら浜辺へ帰りましょう」「おいおい、新人君。なんだか妙に焦っちゃいねえか」 後ろから付いてきていたネイヴァンが飄々と言う。彼にはわから
ラシュトに導かれ、僕たちは洞窟の中へと入っていった。 ひんやりとした空気。足元の地面は剥き出しの岩肌で、場所によっては水滴で湿っていて滑りやすい。壁面には光る苔や菌類がまばらに張り付いており、それらが様々な色合いでぼんやりとした微光を放っていた。天井は標準的な成人男性の背丈ぎりぎりくらいの高さしかなく、長身のネイヴァンは常にかがみ気味で、何度も頭をぶつけそうになっている。 洞窟の奥へ進むほどに、湿気と冷気が増していく。水の滴る音がどこからかポチャン、ポチャンと反響する中、ラシュトは楽しそうな鼻歌を歌う。 やがて道が開け、僕たちは広々とした空間へと出た。 天井は高く、壁面は無数の岩が積み重なった形状をしている。その岩々の隙間から新鮮な外気が入り込み、ゆるやかな空気の流れを生み出していた。 中央には焚き火の跡があり、奥には乾いた枯草を敷いた簡素な寝床がある。物を入れる木箱や簡素な木の机、革袋のようなものまであり、それなりの生活を営んでいる様子が伺える。「ここが僕の部屋だよ。まあ、ちょっと狭いけど、十分だよね?」 ラシュトは振り返って、にこりと微笑む。「なかなか悪くないな」 エルドリスが周囲を見回しながら呟いた。「きみが一人でここを作ったのか?」 ネイヴァンが少し驚いたように尋ねると、ラシュトは得意げに頷いた。「そうさ。死刑囚島《タルタロメア》は危険だけど、こうしてちゃんと居場所を作れば生きていけるんだ。さあ、座って」 ラシュトの言葉に従い、僕たちは焚き火の跡の周囲に腰を下ろした。「さて、晩ご飯の準備をしようかな」 ラシュトは焚き火の残骸に火をつけ直し、部屋の端に置かれていた木箱から干し肉らしきもの
「おいおい、新人君、今なんて言った? 俺の聞き間違いか?」「聞き間違いじゃありません。彼はA級殺人犯です」 ネイヴァンは眉をひそめて、少年をまじまじと見つめる。しかし、見たところでわかるものでもない。囚人に、その罪状と等級ごとに刻まれる魔導印は、人道的な理由により監獄の監督官にしか見えないようになっている。「死刑囚島《タルタロメア》に送られた囚人の生き残りか」 エルドリスが冷静に呟いた。 そうでしかあり得ないと僕も思っているが、疑問は残る。「最後に死刑囚が送られたのは約一か月前です。仮に彼がそのときの死刑囚だとしても、一か月間この島で生き抜いたことになる。そんなのは前代未聞です。大抵は数日で魔物に襲われて命を落とします」 少年に注意を払いつつ小声で話していると、少年は突然にこりと微笑んだ。「ねぇ、あなたたちも死刑囚?」 不意に発せられた問いに、僕は思わず違うと答えそうになったが、その前にエルドリスが進み出て答えた。「そうだ」 僕はぎょっとして彼女の横顔を見る。その表情には何か思惑がありそうだった。 少年は興味深そうに僕たちを見つめながら、「罪状は?」「連続強盗殺人。三人ともグルだ」 少年の目が楽しげに輝いた。「へぇ! じゃあ僕と似たようなものだね」 それは笑顔で言う台詞か? 背筋にぞくりと寒気が走った。「僕はラシュト」 少年――ラシュトに促され、僕たちはエルドリスから順に名乗った。「ラシュト
三人の総意により、フワドルの子どもは逃がしてやることにした。 だが僕が俊足の鎖《ラピッドチェイン》を解いてやると、白くふわふわした小さな魔物は走り去らず、エルドリスの足にぴょんと飛びついた。「なんだ」 エルドリスが面倒くさそうに見下ろす。「きゅるる♪」 甘えた声を出して彼女の足にすり寄るフワドル。その小さな前足で彼女のズボンをカシカシと引っかき、まるで注意を引きたいかのようだ。「おいおい、可愛いじゃあないか。ママになってやれよエリィ」 ネイヴァンが楽しげに笑うが、それも含めてエルドリスには鬱陶しいようで、彼女は大きめの舌打ちをする。「お前がパパでも何でもなってやれ。……おい、まとわりつくな、離れろ」 エルドリスは足を振ってフワドルを引き剝がそうとしたが、フワドルはまるでそれが遊びの一環であるかのように喜び、ますます彼女にじゃれついた。「きゅっきゅ♪」「……ああもう、好きにしろ」 諦めた様子でため息をつくエルドリス。 そんな彼女を見ながら、ネイヴァンが「そうだ」と手を打った。「このフワドルに、擬態してたあの気色悪い魔物をどのあたりで見たのか聞いてみようぜ。案内させれば話が早いだろ」「フワドルって会話できるんですか?」「試してみりゃあいい」 そう言ってネイヴァンは、エルドリスの足にしがみつくフワドルのそばにしゃがみ込んだ。「おい、チビ助。お前が擬態してたあの魔物、どこで見かけた?」 魔物に人間の言葉が通じるはずがない。それも
捕えた魔物を前にして、僕たちは互いに顔を見合わせた。「さて、こいつをどうするか」 ネイヴァンが腕を組んで魔物を見下ろす。エルドリスは、僕の俊足の鎖《ラピッドチェイン》でがんじがらめにされている魔物を靴底で蹴って転がし、あらゆる角度から観察しているようだった。 ひび割れた皮膚。位置のズレた不自然な関節。形の歪んだ頭部。白く濁った目。 不気味すぎて到底人間とは思えない、人間に酷似したモノ。 ナイフの刃先で魔物の顎を持ち上げて顔を凝視していたエルドリスはため息をつくと、低く言った。「やはり見ただけではわからない」 その言葉の意味するところを察し、僕の胃が縮み上がる。 やっぱり、そうなるのか……。 どうやって拒否しようかと考えていた、その時――「きゅーぅぅ♪」 思わず全員が固まった。 なんだ今の音……いや、声か? 発生源を三人で見下ろす。 聞き間違いか? 今、この魔物が頓狂な鳴き声を上げたような……。 次の瞬間、魔物の体がぼわんと破裂し、白い煙が立ち上る。「全員下がれ! 煙を吸うな!」 服の袖を口元に当てて防御しながらエルドリスが鋭く叫ぶ。僕とネイヴァンも同じように口元を覆い、離れた場所から煙が晴れるのを待った。 逃げられてはいない手応えはあった。監獄の監督官が会得する俊足の鎖《ラピッドチェイン》は、そう易々《やすやす》と破れるものではない。僕の鎖はまだ何かを捕らえている。 しかし、その対象物は随分と
朝焼けのもと、僕たちは再び島の奥へと足を踏み入れた。ネイヴァンの転移魔法で昨日、クラ―グルと遭遇した場所まで一気に移動し、そこからさらに進んでいく。 高い樹々に日光を遮られた森は晴天の朝でも薄暗く、空気は冷たく湿っていて、不気味な雰囲気があった。明確な気配こそ感じないが、どこか草葉の隙間から、僕たちを狙う上級魔物が様子を伺っているのではないかと嫌な想像をしてしまうくらいだ。「周囲をよく観察しながら進め。普通の魔物の痕跡とは異なるモノが見つかるかもしれない」 エルドリスは僕とネイヴァンにそう指示し、先頭を勇ましく歩いていく。 僕は彼女の背中を見つめながら尋ねた。「エルドリス、もしも本当に、魔物にされた人間かもしれないモノを見つけたら、どうするんですか」 エルドリスは間髪入れずに答えた。「捕えて観察する」「それで、元人間かどうかがわかりますか?」「個体によるだろう。会話ができれば間違いない。それが無理でも人間だったころの名残が見受けられれば、そうとわかる。例えば指輪をしているだとか、歯に治療痕があるだとか」「そういうのがまったくなくて、判別できなかったときは?」「……お前が頼りだ」 やっぱりな。「ねえエルドリス、わかっていますか。人間が人間を食べること――カニバリズムは禁忌です。僕に禁忌を犯させるんです?」「私のために犯してくれ。いや、私たちの目的のために」「あなたには、人の心がないんですね」「すまない。だが他に方法がない。お前に支払わせる代償は大きいが、その分私もあとから同じだけ代償を支払おう」「別に道連れを求めているわけじゃ……」 ネイヴァンが背後で軽薄に笑った。
夜の帳が下りる中、焚き火の炎が砂浜を揺らめかせる。「皆さま、こんばんは。『30分クッキング』です」 いつものように調理台の手前に立ち、僕は魔導カメラへ語る。「本日も特別企画として、死刑囚島《タルタロメア》よりお届けしております。食材はこちら、クラ―グルです」 調理台の上に横たわるのは、蛸に似た巨大な魔物。無数の触手は束ねられて、ぎちぎちと締め上げられているが、まだ抵抗の意思があるのか、拘束の下でしきりに蠢《うごめ》いている。「クラ―グルはA級魔物に分類される非常に危険な存在ですが、味は絶品と言われています。本日はこのクラ―グルを、活け造りにしていきます」 エルドリスがナイフを手に取り、クラ―グルの巨体に歩み寄る。「まずは、触手の一本を開く」 刃が触手の表皮に触れた瞬間、クラ―グルが激しくもがき出す。しかし、エルドリスは構わず、縦一直線に浅く切り込みを入れた。そして切り込みに両手の親指を差し入れる。「クグルゥゥゥゥ……ガァ……」 ズルッ、メリメリッと嫌な音を立てて皮を剥いでいく。剥ぎ終えると、手際よく内側の肉を削ぎ始める。「ピィィィィィィィ……ギャアアア……」「薄く削いだ方が、食感が良くなる」 削ぎ取られた肉は透き通るような白色。それを、まだ生きているクラ―グルの顔の上に飾り付けていく。趣向を凝らした活け造りだ。「次に、頭部を処理する」 エルドリスは、クラ―グルの頭部に垂直に刃先を当てる。そして体重をかけて刺し込む。